「何者かになること」を目指して、「何者にもなれなかった」過去がある私が考える、「何者かになること」の必要性の有無。自分が自分である以上に、何かになる必要はあるのだろうか。自分を探し続けて出会えたものとは。
ーーー記事は広告下に続きますーーーずっと「なにか」になりたかった
私はずっと「なにか」になろうとしていた。
美大に入ってアーティストとかデザイナーとか言われるような人になりたいと思っていたけど、なれなかった。
メイクの学校に通ってメイクアップアーティストになりたかったけど、なれなかった。
社会に出て映像の仕事に就いたはいいものの、美術という大枠にはおさまりつつも、いろいろな部署を転々としていた。
ここでも私は決まった「なにか」にはなれなかった。
絵本作家になりたくて講談社絵本新人賞に応募してみたけど、なれなかった。
そして、今、ライターという仕事をしているわけだけど、本当は「◯◯ライター」という専門性のあるライターになりたいと思いながら、クライアントワークでは特になにかを専門とするわけではなく、いろいろな記事を書いている。
半ばはったりで「アートライター」なんて名乗ってみたこともあったけど、自分がやっていることとのギャップを感じて名乗るのをやめた。
さて、結果としていまだに自分の望んでいる明確な「何者か」にはなれていない私。
前よりは何者にもなれていない自分に焦りを感じなくなった。
ある答えが自分の中で出たからだ。
何者でもない=何もできない、ではない
私が「何者か」になることにこだわらなくなったのは最近のことだ。
こだわらなくなった理由は、やりたいことがひとつじゃなくなったから。
アートライターと名乗らなくなったのも、アートライターを名乗ることで弊害が生じるようになったからだった。
アートライターを名乗るからには作品についての解説みたいなものを書かなきゃいけないし、ライターであるからライターとして活動するのがメインになるだろう。
しかし、私はArtist+の活動の中で出会った作家さんの作品についての解説、ましてや批評文なんて書く気はさらさらないのだ。
つまり、私は仕事でライターをやっているけど、Artist+で作家さんや作品と関わる時はライターではない。
「アートライター楠ももこ」としてひっくるめて活動してしまうことに、徐々に違和感を抱くようになった。
ただ、自分が何をしている人なのかを説明する必要はあると感じたので「アーティストイントロデューサー」という自分で作った肩書きをつけたのだけど、はっきり言うとこの肩書きには識別性はあるけど社会的な地位はない。
さらに、「作家を紹介する人」という漠然とした意味なので、何をやる人なのかも自分で決めていかなければならない。
自分から「何者でもない私」になることを選んだのだ。
アートに関係ない記事のライターもやるし、作家さんのインタビューもやるし、インタビューしたら記事にもするし、イベントやらないか?って誘われたらやるし、前職の人からデザインの依頼があればデザインもする。
私は社会的に地位や認知される「何者か」ではないが、「何もできない人」ではない。
昔の私はきっと「何者でもない私」=「何もできない私」だと思い込んでいた。
「何者か」にならないと必要とされないと思い込んでいた。
しかし、そうではないということに気がついたから、「何者か」になることをやめた。
何かに特化しているわけでもないライターの私を必要としてくれている人もいるし、アーティストイントロデューサーという一体なんなのかさっぱりわからない得体の知れない私でも必要としてくれる人もいる。
「何者か」ということに縛られていたら出会えなかった人たちだ。
私は「何者でもない私」が出会って、「何者でもない私」を必要としてくれる人を大事にしたい。
何者かになる必要はない
あの時、何者にもなれなかった私へ。
あなたは、今も何者にもなれていません。
それどころか、何者にもならない道を選びました。
あなたは残念がるかもしれませんが、何者にもならない未来も、あなたが思っているよりずっといいものですよ。
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